Se connecter昔から美月は、冷たい対応──無視されることに慣れていた。他の部員のように気軽におしゃべりをすることも、部活動のあとどこかへ遊びに行くことも、SNSやメッセージアプリでやり取りするなんてこともなかった。
それでも中学生のときから弓道を続けているのは、別に特段弓道が好きだからではない。いざというとき自分の身を守れるよう運動神経を鍛えておく必要があったからだ。それは自分の思いというよりは、自身の「兄」からの希望だった。
弓道着から制服へと着替えを済ませると、美月は髪を結っていた赤いヘアゴムをほどいた。一度も染めたことのないつややかな黒髪が背中まで流れる。小さめのグレーのポーチからくしを取り出すと、ロッカーに付属している小さな鏡で乱れた髪をすく。
美月は急に更衣室が静かになったことに気づいて、手を止めた。なんとなく重い空気が肩にのしかかり、「ああ、これは……」と心を固める。
「古塚さんさ」
「……はい」
左手で髪の毛を触ったまま、3年生の先輩、加護《かご》の方へ顔を向けた。半笑いの表情から何が言われるのかはだいたい予想がつく。
「今日も男子、いっぱい来てたよね」
「……はい」
「そうやって、迷惑だって顔してるけどさ、本当は内心喜んでるんじゃない?」
「……」
返事はしない。こういうときは何を言っても悪い方にしか受け取られないことをこれまでの経験で何度も美月は学んでいた。
少し緩いパーマをかけた加護の隣の2人は、腕を組んでわざとらしくため息を吐いた。
「清楚なふりして、本当はあいつらと仲良くヤってんじゃないの? あんたのせいでみんな迷惑してるのわかってる? お嬢様気取りかなんか知らないけど、あんま調子に乗ってんじゃねぇーよ」
(……うるさい)
「調子に乗るな」「迷惑なんだよ」「気取ってる」──幼い頃から飽きるほど言われてきた言葉だ。昔はムキになったり、怒ったり、泣いてしまったこともあったが、今の美月はもう諦めていた。
どうしたって、変わらない。何をしても変わらない。だから美月は何も言わず深く頭を下げると、荷物を持ってすぐに更衣室から出ていった。
「だいじょーぶ? みーちゃん、顔、怖いよ?」
外に出た途端に後ろから話し掛けられて、美月は目を丸くした。
声を掛けてきたのは、如月《きさらぎ》乃愛《のあ》だった。黒髪でストレートの美月とは違い、茶色に染めたボブカット。背も平均より高い美月と比べると低めの方で、凛々しい顔立ちの美月と、中学生、服装によっては小学生とも見間違えられかねないかわいらしさ。
対照的な二人ではあったが、何かと人間関係のトラブルに巻き込まれる美月のほぼ唯一と言っていい安心して過ごせる相手だった。
「……びっくりした。乃愛、なんでここに? 念のために言うけど、今日、春休みだよ?」
「さすがにわかってるよ~」
乃愛はにっこりと微笑むと、顔の前で手をヒラヒラさせた。
「みーちゃん、そろそろ部活終わるころだったかな、って思ってさ。弓道場の前で待ち伏せしてたところ」
何も飾らない、いつもの乃愛の笑顔を見て美月は知らないうちに詰めていた息をそっと吐き出すと笑顔を見せた。
「そうやって言うけど、小学校の頃から何回も登校日間違えてるからね。その度に私が連れ戻したり、迎えに行ったり──」
「もう~今となってはいい思い出じゃん! さすがの私も高校生になったんだから、みーちゃんの手はわずらわせないよ!」
「さて、どうかな?」
美月は悪戯っぽい笑みを浮かべると、登山でも困らなそうな黒い大容量の鞄を持ち直し、乃愛の小さな背中を軽く触って先を歩き始めた。
少し抜けているところがある乃愛を、美月が半歩先へ行って引っ張っていく。保育園のときに出会って以来、二人はずっとそういう関係性を築いてきた。だが、実は自分が乃愛に助けられているのでは、と思うときもあった。
「それで、みーちゃんはまた何を悩んでいたのかな?」
乃愛が、真横を歩きながら美月の顔を覗き込んできた。鼻から下は笑顔だが、目だけは笑っていない。
(こういうときの乃愛ははぐらかせない)
「何って……いつもの『アレ』だよ」
乃愛の綺麗な栗色の瞳を直視できずに、美月は目線を逸らした。
「あ~いつもの『アレ』ですか」
「そう、『アレ』」
「『アレ』ねぇ~」
渡り廊下の途中で美月の足音が止まる。
「もう、わかってるんだから、深堀しようとしないでよ。私は、全然気にしてないから大丈夫」
廊下の先の中庭には立派な桜の木が一本植えられている。ちょうど満開を迎えた辺りで風にそよぐ様は、凛と美しく、そして力強かった。
乃愛の手が美月の左手をつかんだ。温かい感触に思わず手を引くと、美月は慌てて友人の顔を見た。
「な、なに? 急に」
「うーん、みーちゃん、寂しいのかなって?」
「寂しい? 私が?」
「うん、ほら、あの桜見て、『私もあんなふうに一人でも何にも気にせず強くなれればいいのになぁ』……みたいな?」
「そ、そんなこと──」
本当かどうか問いかけてくる乃愛の大きな瞳からは逃れられなかった。
「ない……とも言い切れない……けど」
パッと大きな笑顔が咲いた。花のような鮮やかな笑顔だった。
「いつも言ってるでしょ。みーちゃんはみーちゃんでいいけど、一人になろうとするのはダメだって。みーちゃん、一人になると何するかわからないんだから」
「わかった。わかったよ、もう。話すから。でも場所を変えよう。ここじゃ、誰に聞かれるかわかんないから」
「うん、もちろん!」
赤い鮮血が垂れる。首を伝い、至極緩慢に重力に従い落ちていく。目が離せなかった、離すことができなかった。虚ろなどこか遠くを見ている目が、初めて認識したようにこちらを見て瞳孔が開く──。* 着信音が鳴っている。「うっ」、と声を出しながら怠そうに目を開くと体を起こした。(寝ちゃってた……制服のままなのに……) 美月は乱れた髪の毛を軽く整えながら、スマホのありかを探す。唸るように鳴り続けるスマホは、いつの間にかベッドの下へと落ちていた。(いくらなんでも、なんでこんなところに……) 振動が自分以外誰もいない家の中に響く。美月はカーペットの上に伏せると右腕だけを伸ばしてスマホを取ろうとした。(ずっと鳴ってる……もしかして)「……兄さん?」 寝ぼけたままだった細い目が開くと、美月は急いでスマホをつかんで起き上がった。「違う……誰?」 知らない番号だった。以前、誰かから聞いたのか顔も知らない男子生徒から電話が掛かってきたことがあり、それ以来美月は見覚えのない着信番号には出ないことにしていた。「でも……もしかすると……」(兄さんに何かあって、その電話なのかもしれない) 幾度か逡巡したあと、美月は意を決して電話に出た。「……はい」「古塚さん? ちょっと急で連絡事項があって」「えっと……」「ああ、ごめん、ごめん。弓道部の二俣です」「あっ、すみません……」 電話先の相手が二俣だと知って、張り詰めた心が緩む。胸の前で握り締められていた拳が解《ほど》かれ、無意識のうちに美月は姿勢を正すと前髪を直した。「いや、いいんだ。それよりさっきの話なんだけど」(さっきの、と言うといなくなった加護先輩の件) 寝る前に抱いていた悶々とした気持ちを思い出す。進展はあったのか、それともやはり美月の勘違いだったのか。「古塚さん、『白無垢の恋唄』って知ってるかい?」「……えっ」 二俣からその言葉が出された瞬間、背筋が凍りつき、すぐに返答することができなかった。背中が急に重くなったような気がしてベッドへと腰掛ける。「なんかSNSで流行っているらしいんだけど、僕はこの年だしSNSやってないからよくわからないんだけど、みんなを帰らせたあと、加護さんにそのことを教えたとかで急に残ってもらった2年生の1人が泣き始めてしまって」 やはり、何かを知ってたんだ──とは思った
弓弦は短い前髪をかきあげる。(これは……母さんが美月を連れてこなかった理由もわかるな) 弓弦が誕生日を迎えたのは、春休みが始まる少し前だった。母親が急に旧家に帰ろうと言い出しのは、リビングでささやかな誕生日祝いを終えたすぐあとだった。最初は渋っていた弓弦だったが、母親のいつもの「遠い目」に首肯《しゅこう》せざるをえなかった。 母親は、「部活のある美月は大変だろうからと二人で」、とさも美月のことを考えて提案しているように装っていたが、本音は「美月は連れていきたくない」と思っているであろうことは明白だった。弓弦は、隣りに座っていた美月の顔を窺ったが、美月が小さく頷いたので二つ返事で承諾することにした。 弓弦と美月の兄妹にとって、一人しかいない肉親である母親は、幼い頃より何よりも優先すべき人間だった。 今回の帰省が実は理由不明の「成人の儀」てあることを知ったのは、電車を乗り継ぎながら移動している最中のことだった。内容や目的を聞いても「着いたらわかる」と返されるだけで、一つだけわかったことは「古塚家の男子は18歳になったら、この成人の儀を受けなければならない」ということだけ。母親はそれ以上口を開くことなく、ぼんやりとあの「遠い目」で流れる車窓の景色を眺めていた。(この令和の世に。なんだよ、成人の儀って、しかも男子だけって。美月は受けなくていいのかよ) 心の中で愚痴をつぶやくが、早々に意味がないことを察して弓弦は横になった。横になったらなったで儀式だからと着せられた黒い袴が快適さを邪魔をして、また板張りの上に胡座《あぐら》をかいて座った。(理不尽なことが多すぎる! じいちゃんもばあちゃんも当たり前のような顔して準備を始めるし。じいちゃんも昔儀式やったことあんだから、どんな感じか事前に教えてくれてもいい……の、に……)「ん?」 どこかから
「ここは、いったい……?」 辺りは一面、黒に塗り潰されていた。まだ真昼間だというのに、夜のように暗く手探りをしなければ壁がどこにあるかわからないほどだった。天井は低く、立ち上がればすぐに頭がついてしまう。 一人でも圧迫感を感じる狭い部屋だった。ここに二人も人が入れば空気が薄くなってしまうのではないかと思ってしまうほど。窓もなく、唯一の出入り口と言えば今連れてこられた古びた木製の戸だ。その戸ですら両手を地べたについて這うような体勢でなければ出入りはできない。 戸は、中に入った途端に大きな閂《かんぬき》で施錠されてしまったために誰かが来なければ開けてもらうことはできないが。 少し体を揺するだけで埃や木屑《きくず》がパラパラと落ちてくる。虫が一匹もいなそうなのが幸いだったが、特にひどいのは臭いだった。どこからというものではなく、部屋全体からなんとなく漂ってくる腐臭。鼻が慣れてくれば気にならないのかもしれないが、ねっとりと粘りつくようなその臭いが嫌だった。「これが祠?」 幼い時分から妹と二人で想像していた祠のイメージとはだいぶかけ離れていた。祠と聞けば、古いなりにもそれなりに綺麗に保たれており、神社でよく見る白紙や赤い鳥居に守られるようにして何か依代のようなものが鎮座しているのを想像していたが、実際に入ってみれば何もないただの狭い空間があるだけだった。 他との境界線がないわけではない。地上にあるだだっ広い旧家からは階段を降りて来なければならず、閂付きの戸、窓も何もない空間は意図的に他と隔絶されているように造られている。それでも、これではただの部屋に過ぎなかった。 半ば期待していた分、落胆も大きかった。その上これから一週間もここで生活しなければいけないという事実が心を暗くする。(成人の儀って言ってたよな?)「ま
家のドアを乱暴に閉めると、美月は制服のままに2階の自室へと上がりベッドにダイブした。無地の白い枕を両手でつかむと、抱き締めて二度、三度と寝返りを打つ。 どうしてあんなことを言ってしまったのか、美月にもわからなかった。いつものとおり無関心でいればよかった。何を言われても気にせず、涼しい顔で生活を送ってきたのだ。正義ずらして事実をただし、真実を明らかにするようなことをする必要はなかった。(だいたい私は本当に何も知らないんだから、知らない顔して真っ直ぐ帰ればよかったんだ) 今になって不安が襲ってくる。あのときは先輩が何かを隠していると思ったのだが家に帰り冷静に考えると、そうじゃない可能性がいくつも思いつく。先輩はただ、いなくなったことが怖くなってショックを受けていただけなのかもしれない。そうだとすると。(──また、部での印象が悪くなっちゃうな) 美月は枕を胸の上で抱いたまま、天井を見上げた。真っ白な天井には長年住んでいた証のようにところどころ染みが目立っていた。 ぼうっと、染みの数を数えていると突然今朝方の夢を思い出す。母親の手を黒い手がつかみ、続いて1つ2つと全身を覆うように黒い手が増えていく。まるで母親をどこかへ連れて行こうとするかのように。 体がゾワッと震えて、背中に冷たいものが走る。目を閉じると夢は霧散するように消えた。 思えば、無関心なのは母親に対しても同じだった。 美月は、父親の存在を知らない。遡れる記憶の最初から、家には兄と母親と自分しかおらず、生まれたときには父親がいたのか、兄が生まれたときにはどうだったのか、離婚なのか死別なのか、そもそも籍を入れたのか入れていないのか、何も知らなかった。 母親に聞こうと思ったこともない。というよりも何かを尋ねていい雰囲気は皆無だった。料理の話もそうだったが、そもそも母親と他愛もない何かを話す、という行為が自分には許されていない、認められていないことをなんとなく感じ取っていたからだった。 美月には母親と久しく会話した記憶はない。3人で食卓を囲むこともほとんどない。あるとすれば兄の誕生日くらいで、それも黙って美月が用意した誕生日らしいピザや手巻き寿司、フライドチキンなどのご飯とホールケーキとを食べるだけで、仮に口を開いたとしてもこの間みたいな突拍子もないことを言い出すか、兄の話ばかりだった。普段は兄と
街中に咲き誇る桜の木を眺めながら美月が弓道場へ着くと、部員が中央で集まり何かを話していた。それも男子と女子両方の部員だ。(……緊急ミーティング?) 制服のスカートのポケットに入れたスマホを見るも、部からの連絡は入っていなかった。弓道着姿の部員は誰もおらず、みんな制服でいることから今しがた何かが起こったのか、と美月も急いで中央の輪に入った。 すぐに気がついたのは、みんなこれまで見たことがないような深刻な面持ちをしていることだった。大会の前や段級審査のときももちろん不安や緊張でピリッと張り詰めた真剣な雰囲気になることもあるが、ここまで悲壮感が漂うような空気になったことはない。 話をしているのは副部長と男子弓道部の部長と二俣だった。周りの部員がざわざわと話している中、二俣の焦った声に耳を傾ける。「──つまり、加護さんと森久保さんの2人と連絡が取れないということでいいのかな?」(加護? 加護先輩のこと? じゃあ、もう1人は森久保……先輩?) 美月は月に一度の合同練習の記憶を思い返していた。森久保がわざわざ自分の横に立ち、弓の持ち方や動作を教えてくれた姿が目に浮かぶ。別け隔てなくよく目を掛けてくれる先輩だと、美月は思っていた。 黒髪ベリーショートの副部長は強くうなずくと身振り手振りでさらに詳しい状況を説明する。「そうです! 今日、ここへ来たら彩乃と仲良くしている2年生2人から、昨日の夜から連絡がつかないって言われて、私も連絡してみたんですが全然つかまらなくて」 2年生の2人とは、昨日更衣室で加護先輩と話していた2人だろうと、美月は30人ほどの部員から2人の姿を探した。(いた。でも、顔色がおかしいような……) ポニーテールで髪の毛をまとめた1人は困ったような顔をして、訴える副部長の顔を見つめていた。しかし、なぜか下を向いているもう1人は長い前髪で表情は読み取れないものの蒼白い顔をしていた。 何か知ってる──そう考えたときに外野から声がして思考が途切れてしまった。「おっ! 美月ちゃん来たじゃん!」「何? 弓道部、練習やらないの!? 俺ら美月ちゃんの練習見にきたんだけど!」(あいつら、こんなときまで!!) さすがに許せないと文句の一つでも言ってやろうと近づこうとしたそのとき、二俣の口からこれまで聞いたことのない怒声が飛んだ。「いい加減にしろ!
長袖の白シャツにボーダー柄の長めのパンツというシンプルなルームウェアを着たまま歯磨きを済ませると、美月は綺麗に整えたキッチンの前に立った。 フライパンに米油を垂らし、火を点ける。十分に温まる間に冷蔵庫からウインナーを取り出すと、包丁で綺麗に切れ目を入れていわゆるタコさんウインナーを作った。 タコさんウインナーは兄、弓弦の子どものときからの好物だ。もう高校3年生にもなると言うのに、食事にウインナーを出すときはこのウインナーを所望し、前に忙しくて時間がないときにただ表面に斜めに切り目を入れただけのウインナーを出せば、「タコの奴じゃねえーのかよ」などと文句を言ってきた。 美月は、「どこのモラハラ夫だよ」と返したが、内心自分とは違い母親に甘やかされて育っているから仕方がない部分もあるかと不思議と納得している自分もいた。 フライパンにウインナーを投入する。続いて、空いたスペースに卵を2つ割り入れて目玉焼きをつくる。炒めている間に、玉子焼き専用の四角いミニフライパンを出して同じように火を点けると、そこに入れるべき卵液を混ぜ始めた。(しょうがない。兄さんは昔からそうだし、お母さんも昔からそうだ) 兄とは対照的に美月は自分でも自覚するほど実に厳しく育てられた。物心ついたときにはすでに自分で身の回りのことは済ませていた記憶がある。小学生に上がる頃には、踏み台を使って料理をしていたし、中学生になるともう家事は全て美月の仕事だった。 美月は長らくそれが当たり前だと思っていたのだが、乃愛と話をしたり、クラスメートの会話に耳を傾けていると、どうも他の家では母親か父親か、どちらにせよ親が家事をすることが当たり前らしい、ということがわかった。 玉子焼きは兄がしょっぱいのが好みだった。甘いのが好きな美月は以前は2回玉子焼きを作っていたのだが、面倒くさくなって今は兄に合わせて卵液に醤油を一回ししている。適度に混ぜ終わったところで、火力を調整したフ